生まれて初めてこの眼に映したが、最上のものだった。

 

永劫に回帰する

 

レグルスの記憶は、兄から始まる。

彼が自己と言うものを認識し、一番初めに知覚したのは兄であるシリウスであった。

 

テラスへと続く瀟洒なアイアンレームに縁取られたガラス扉。

真紅の絨毯が敷き詰められたその露台前の床に座り、伸ばした足の腿に小さなレグルスを乗せて覗き込んできた、美しい人!

幼い、だが見るものの意識を絡め取る凄惨なまでの美貌が、降りそそぐオフホワイトの暖かいばかりの陽射しを受けてうっすらと頬を薔薇色に染めていた。

耳朶を覆い白皙の肌に掛かる艶やかな縺れひとつない、滑らかに過ぎる絹の如き黒髪は、星一つ無いまったき夜闇。

その深色に属する、けれどずっとずっと薄まった、灰銀の瞳。

水中にたった一滴。落とされたインクが溶けたような薄明の色。

どこまでも透き通って濁りの無い、光にも通じる優しい薄闇は、なんて誘惑に満ちて吸引力をもっていることだろう。

虹彩の縁はより色が濃く、それと透き通った白地との対比はあんまりにも際立って、よりいっそう薄闇の水面を浮かび上がらせていた。

 

呑み込まれ溺れてしまうその心地よさと来たら!

 

水中に没したように、全身をひんやりと柔らかく包み込まれ、まるで母の胎内に微睡むような酩酊にひたされる。

眼に映るすべてはいっそ残酷に輝かしく美しく、レグルスのまっさらな意識を焼き焦がし、見るも悲惨なケロイドとなって克明に刻み込まれた。

火傷痕は今も癒えることなくじゅくじゅくと膿み爛れ、むしろシリウスを目にする度にその領域を広げて、重度を深めていく。

そうして耳孔に滑り込み、全身を走りぬけ脳髄を蕩かした柔らかな甘い声!

 

「レジーレジー」

 

舌足らずに煮詰めた蜜のように甘ったるい響きで弟を呼び、その己と同じ紅潮したまろい白い肌に、頭髪に、羽根が触れるようなキスを繰り返し落とし、兄は笑むのだった。

 

「愛しているよ、レジーレジー、レグルス。可愛い子。私の弟、私のレグルス」

 

何度も確認するように、言い含めるように、まるで呪文のようにシリウスはレグルスを呼ばう。

それは確かな呪文であり、呪いだった。

柔らかに甘い愛情という鎖でもって、レグルスを雁字搦めに捕らえて、決して放さない。

そんなにも耳に心地良い麗しい声で呼ばれて、どうして諍える?

忘れられる?

 

意識を霞ませ、思考が痺れる陶酔を他愛なく与えて寄越す、何よりも誰よりも残酷で傲慢に美しい人。

 

その人を失う事など耐えられない。

 

兄の愛情を失わぬためならば、レグルスは誇りを金繰り捨てもしよう。

泥に塗れた地面に額づき、その足に縋り付き慈悲を乞うて哀願することすらも容易くしてのけてみせよう。

もし兄を失くせば、レグルスは狂う。

自我は崩壊し、狂気と絶望のうちに彼岸へ旅立つ。

 

彼の世界は、兄だけで完結しているのだから。

 

あの己にのみ向けられた慈愛に満ちた、甘やかな優しい悦楽をくれる声!

その眼差し、その微笑!

 

シリウスのそれらは弟である彼ただ一人だけに与えられたもので、弟以外に与えられる事は一度としてなかった。

そう。

かのポッターに対してすら、シリウスはその慈愛を、甘美をそそぎごうとはしない。

彼等に向けられたのはどこまでも明るい快活にすぎる好意の輝きだけであり、腹の底で欲が鎌首を擡げるような愉悦が齎されることは、終ぞ無いのだ。

 

「お前は特別だからね、レジー。だって、俺の弟だもの。たった一人の可愛い、俺と同じ血と歴史の欺瞞で形作られた、俺の伴星」

 

そう艶美に微笑む、己の優位を確信しきった、高慢なる黒。

 

残酷に光り輝いて、誕生を迎える以前の、いまだ殻に包まれたままでいた小さき蛇王を焼け焦がした、彼を抱きし母たる全天の支配者。

天の一位たる兄を前に、どうして無力なる被創造物如きが逆らえる?

意識が形成されるより先に包んでいた腕、生まれて一番最初に見たモノ、絶対の存在。

 

世界に自己と兄しか存在しなかったあの時代こそ、まさしく楽園だった。

 

否応なく訪れた二人きりの箱庭の崩壊を経て、レグルスは外界へと踏み出したが最も素晴らしきを最初に知った彼が、その世界に感動を覚える事物は何一つ存在しなかった。

終生、それは変わらないだろう。

彼を幸福にできるのは、天狼の名を冠する夜空の一等星。

レグルスを震えさせ、その情動を呼び起こすのは兄であるシリウスただ一人。

彼以外など、真実には塵ほどの価値もない。

 

彼を育みし母は兄であり、

世界は美しい母たる兄だけで構成され、弟を支配する神もまた兄であった。

 

レグルスはその最後の鼓動すらもシリウスに捧げ、命の費えるその時までも兄を見詰め、そして逝く。

己の欲求の赴くままに血族を捨て、伴星たる弟を置き去りにして生きる、高慢すらも輝かしい黒き血と狂気の結晶たる兄によって、魔法界に君臨せし黒家最後の王は焼き尽くされるのだ。

それはレグルスの望みであり、彼にのみ許された権利であった。

 

彼の王以外の誰がこの栄誉を得る事ができようか。

 

焼け痕すらも蕩ける甘露に他ならない、この至上。

この至福。

 

 

「貴方によって始まり、貴方によって終わる」

 

 

(この、黒に塗り潰された記憶の幸福)